5月5日

ときどき、脳天に雷が落ちたような衝撃をうけることがある。『想像力を触発する教育』に「自分たちは実践家であり、そのような思想上の影響を受けることは免れていると信じ、教育についての理念には何の関心もないという人々にはとくに注意しなければならない。そのような人々は、すでに葬り去られた理論家の考え方にとらわれていることが多い。つまり、自分の経験と考えから生まれたものだと思っている見解の大部分が、実は、過去の人となった学者たちのものであり、そういう学者たちの遺物であることが多い。」とあった。教育だけにとどまらず、仕事や生活などあらゆることに対して、 自分は無知だと悟り、好奇心を持って、探求し、アップデートしなければならない。(近年で衝撃的だったのは、宮本常一『塩の道』、松岡正剛『誰も知らない世界と日本のまちがい』『日本という方法』『17歳のための世界と日本の見方』)自分が根拠に思っていることが、ある日を境にころっと変わったとき、どうするのか。自分が正しいかどうかにこだわらないこと、よく間違っても最後の決断が正しければいいこと。

 

今年の大型連休は、フットサルの練習のため、どこにも行けないので、自宅の部屋のソファの上で、現代医療の最前線、テクノロジーと国家の最前線、教育の別視点の本を読んでいる。世界はかなりのスピードで加速している。そのスピードに合わせてこちらもアップデートしていかなくちゃいけない。「いいかい、おなじ場所にとどまるのならね、力の限りを尽くして駆けなければいけないんだよ。そして、ほかの場所へ行きたいのなら、せめてその倍の速さで走るんだね。」と『鏡の国のアリス』の赤の女王は言う。

 

ちょっと一休みがてら、亀山へコーヒーを買いに出かける。いつもの珈琲屋のおっちゃんのおすすめに身を任せる。それから、鈴鹿山脈を視界の左に入れながら、306号線を北上して山へ水を汲みに行く。山の姿がとても綺麗だ。車ではSharon Van EttenのThe end of the worldが流れ、夕暮れとお茶の匂いが重なる。

 

今日は練習が休みなので、思いつくことを書いておく。最も重要なのは、問うということ。いい問いができれば、いい答えが得られる。世の中にはQがちらばっている。いいと言われていたことが、あるときいきなり悪いと言われるようになったときに、行動できることも重要だ。世の中のできごとでたしかなことはないと肝に命じること。まずは選択肢を増やし、そのなかで、最良のものを選ぶこと。そのサイクルを回し続けること。専門分化をすすめないこと。たとえば、教育を教師にまかせすぎないこと。教育に興味があるなら、教師になればいいとおもっていてはだめだ。(今日そんなことをちらっと聞いたけど)。好奇心を発電すること。(こればっかりは自分自身でしかできない。)小麦粉や砂糖(過度に精製されたもの)の過剰摂取は控えたほうがいいこと、食後30分以内の歯磨きで歯が削れてしまうこと、歯磨き粉やテフロン加工のフライパンのフッ素は脳を溶かすこと、日本のベジタリアンが栄養不足なのは日本の野菜の栄養価が戦後の1/6になっているからで、不調や睡眠不足やだるさなどの原因は全く予期していないことだったりすること、寝る3時間前の食事は控えたほうがいいこと。

 

ストイックだねと言われる。そんなわけない。結構なまけている。悪いとわかっていることをやらないのは当然だ。知っているか、知っていないか、知っているつもりか、知らぬふりをしているかの問題だと思う。知ったのなら動けばいいだけなのだから。

 

考えてるねと言われる。いや闇雲に動くほうが怖いと思う。ひとは自分に嫌なことを聞きたくないか、やらない理由を探す。ぼくもそうだ。あれっていいとおもって、やっていることはおおい。

 

意識が高いねといわれる。そうだろうか。知らないだけで、知っていたら行動は変わるとぼくはおもう。ぼくは知ったから行動しているだけで、これを説明しても、感情的になって、文句しか言わず、行動に移さない人もいる。根拠は?っというひともいる。自分がいいと思ったものを選択すればいいとあるひとはいった。なにがいいかわかっていないのに、いいものなんか選択できないと師匠は言った。