4月28日

才能を英語の訳で理解しないのが、最近の僕のお気に入り。才能をtalentと置き換えない。

 

日本では才能というものは「才」と「能」との二つが共に合わさらないとだめだとされていた。「才」は「ざえ」と呼んで、これは人間ではなく、もの(素材)のほうに備わっているものです。だから、庭師にとっては、木や石のほうにあるものが「才」で、それを引き出すのが庭師の「能」ということになる。「石の乞はんにしたがへ」は、日本人の「才能」についての考え方がよくあらわれている言葉です。(『日本問答』松岡正剛、田中優子対談集)

 

風呂上がりに、薄暗い明かりをずっと眺める。世の中には大きな流れと小さな無数の流れがあって、大きな流れをどうにかできるとはおもえないけれどそれを知ろうとすること、小さな流れは意識下に置くことを同時にみなければいけないとおもった。薄明かりは、目の前にある。それを見ている僕がいる。また別所では、別の流れがある。

 

簡単にいうと、僕の見ている世界と、それとは別の世界がある。それも無数に。で、その世界がひとつだなんておもうこと自体にもうがたがきているのに、そんなわけないことがわかりきっているのに、それに合わせようとするから、世界じゃなくて、ひとのほうにしわ寄せがきている。幸せを犠牲にして。

 

何でも持っていることやみんなが持っているものを手に入れることが幸せなのではない。自分のほしいものを知っていて、それを手に入れること、目指すことが幸せなのであって。そんなこと誰だって分かっているでしょ。じゃなきゃ、Googleさえろくに使えないし、休日だって、人生だって、ろくに使えないでしょ。ぼくはこれからその先のことを考えている。ぼくはぼくのほしいものややりたいことを知っているから、それらをつなぐ技術を磨こうと思う。

 

地元の祭りの準備中に、亡くなった祖父の話を聞く。今年公開されたピクサーの映画リメンバーミーが頭に思い浮かぶ。(まだ見ていない。)ひとは二度死ぬという。死んだそのときと、忘れられたときと。