1月8日

朝、コーヒー屋のおっちゃんにもらったブルーマウンテンを淹れる。好きな味ではない。かつてコーヒーといえば、ブルー・マウンテンか、モカマタリか、キリマンジャロだった。いまは、ゲイシャエスメラルダ、コピルアック、エルインフェルトパカマラかな。コーヒーといえば、これ。っという時代のマーケティングで、ブルマンを飲んでいたのだから、美味しくなくても(味覚はひとそれぞれ)、これっとおもうのだろう。

 

サピエンス全史に、ホモ・サピエンスが生き残ったのはイメージすることができたからとあった。みんなが価値があるとおもっている間は、そのものには価値がある。紙幣とか、ハイブランドとか。ハイブランドの値段の半分は広告費。

 

もちろん生活する上では、そういう価値も大切にしたい、一方で、価値づけられたものではなく、自分で価値をつけることをより大切にしたい。形容詞として「ぼくの」をつけたら、その瞬間にビートルズだって、あんパンだって、コーヒーだって、ぼくのものになる。それがストーリーにもなるし、それらのものは、正剛さんがいう言葉を借りると、述語的に繋がっている。

 

身体知。は、プロセスにあるとふとおもった。なにかを達成するのを目標にしたとして、結果的に、その目標が達成できようができまいが、その目標に向かっている途中の道の風景や、匂い、坂の傾斜、すれ違う人々が大切だとおもう。身体的負荷をかけるほどに、心は動くし、経験から学べる。テレビ越しで見るアフリカの砂漠の夕日は綺麗だけれど、おそらく、体を運んで自分の目で見たアフリカの砂漠を見たとき鳥肌が立って絶句するだろう。それは、夕日を見るまでに、数時間飛行機に乗って、言葉が通じない世界に行き、そこから、ローカルな交通手段で、ときには、トラブルにあいながら、たどり着くからに他ならない。自分の体を軽くして、移動して現地に行くことをやめてはいけない。身体知。

 

部屋に積まれている未読の本を一気に片付けたいと思う一方で、読むのに時間がかかっても少しずつ読むことの大切さは重々承知している。身体知。

 

ズレを愛せなくなっちゃあおしまいだな。通りがけにみたテレビで、年配のじいさんが、「玉をほる」といった。テロップには、「玉を投げる」と変わっていた。多様性はどうなるのか。

 

松岡正剛、田中泯の対談本『意身伝心』を一気に読み上げる。コトバとカラダは繋がっている。けれど、コトバとカラダを離れ離れにしすぎている。グーテンベルクが活版印刷を発明する以前、ひとは本を読むときに黙読ができず、音読をしていたという。声を出して本を読んでいたということは、コトバは振動となってカラダと繋がっていた。

 

本著に書かれていたエクササイズをふたつ試してみようとおもう。1)寝る前に、その日一日の出来事を逆に思い返す、2)通勤の車窓から見える風景、そのとき感じやこと、頭によぎったことを同時に言語化する