12月6日

生まれてから日々を過ごしていると、その土地の風土によって、自動的に、自分の中にアプリをインストールしている。それは、物語を読むときや、北風を感じたとき、森の静寂の中にいるとき、に発動する。朝、通勤の車の窓を開けて、外の空気を車内に取り込み思いっきり息を吸うと、寒さで空気の密度が高いからか、息がしづらい。顔全体に冷風を浴びるとやっぱり寒いから、もう冬だ。

 

あれはこうです、これはこうしなければいけません、と言った瞬間、気付かぬ内にインプットされている知識によって、表面的で確定的な情報しか受け取れない頭になっている。そのことに気付かないと、そこに、そうじゃないこともあるよねという余分が入る隙間がない。謎床を読み返すと、「何かでありながら、そうではない」という状態が徹底的に嫌われている、とある。だから、未知のものだったり、価値を変えるものに出会うために、たまにどこか遠くにふらっと行く。「何かに出逢ったときに掴み取るフィーリングを、インストールされている知識の構造にあてはめずに、そのものとして受け取る。それは子どものころに誰もができていた。」先日の辻まこともそれをいっていた。頭を柔らかくしなけりゃいけないし、そういうものを大切にしたい。