9月29日

昼休みに山で昼寝していると寒い。14時過ぎの太陽は傾いていて、杉の木立の隙間を縫って光が差し込んでくる。

 

岡倉天心「茶の本」を読み終える。本はページ数より内容ですね。こんなにも短いもののなかにある、茶や禅、道教から、精神性や美意識の連なりを読み、その先にある、今日のぼくたちの物の見方に想いを馳せる。たとえば、茶室のしつらえにはルールがある。「茶室においては重複の恐れが絶えずある。室の宝飾に用いる種々な物は色彩意匠の重複しないように選ばなければならぬ。生花があれば草花の絵は許されぬ。丸い釜を用いれば水さしは角ばっていなければならぬ。」というように、東洋の「完全」という概念は、内容ではなく、方法にある。このあたり、松岡正剛さんがいっていることに、頷き、鋭いと感心します。ぼくたちは、和風といいながら、たらこスパゲッティに刻んだノリをふりかけ箸で食べている。ぐちゃぐちゃ。カオス。混沌。

 

知らないことは多く、千利休は太閤秀吉に追い込まれて自害したことさえ、ぼくは知らなかった。本著は終わりはそこを描いている。利休なきいま、茶のしつらえは、現世に溶け込んでいる。