6月27日

引き続き、松岡正剛「日本という方法」を読む。昨日読んだ、本居宣長の章がおもしろすぎて、昼休みに、もう一度読み返す。そういえば、松岡正剛「多読術」に、「本は二度読め」とあって、まさしくその通りだなとおもった。場所もそうだし、店もそうだ。一度だけではわからないことがたくさんある。一回見ておーすげーってなる映画より、あるときふと思い出して何回も見たくなる映画のようなもののほうが好きだ。この本は今年のベストブックにランクインするだろうな。まだ読書途中だけど、宣長についていくつか転載しておく。

 

「自分たちが日本人自身であることの根拠をきれいに言おうとすると、その『からごころ』が邪魔をする。そういう実感をもたらすものを取り除いた思索をしてみたい。そう考えたのです。これがいわゆる『国学』というものでした。」

 

「宣長が生涯を通して迫ろうとしたのは『いにしえごころ』というものです。『古意』と綴ります。それに対してその古意失わさせるもの、それが『からごころ』です。『漢意』と綴る。」

 

「宣長は、世界に通用するような原理やどこにでも通用する普遍的な原則などを使って思考したり説得するようなことは、思想の力とは認めたくないと言っている、そう理解してみることです。」

 

「宣長は和歌や古典の物語に日本人の思考の本来があるはずだと考えます。(中略)『もののあはれ』という心情が発動していることを発見しました。宣長がいう『あはれ』とは、『見るもの聞くことなすわざにふれて、情の深く感ずる事』というものです。」

 

「この、『わざ』にふれて『こころ』が感ずるというところが宣長らしいずば抜けた特色で、ここでいう『わざ』は歴史や文化の奥にひそんでいる情報を動かす方法のこと、またその方法を言い当てている言葉をしだいに実感しながら使うことです。」

 

「借りものの言葉で日本の本来を考えようとしている以上は、この先には踏み込めまいというふうに。その借りものが邪魔な作用となっている。それが『からごころ』だと気づいたのです。」

 

宣長が松坂の旅館「新上屋」で賀茂真淵と出会ったときに走った人生を変える電撃、本を読んでいるとしばし出会うこの「うぉぉー」って感覚はクセになる。鼎泰豊で、レンゲに小籠包と刻み生姜をのせて頬張ったときに、出てくる肉汁のように。