5月18日

思考がぐるぐる。ブリコラージュと現代思考or現代的ブリコラージュ

考え方の箱をはみ出す本を、読むことがある、偶然に。

いま読んでいる、猪谷六合雄「雪に生きる」とレヴィ・ストロース「悲しき熱帯」のそのうちのひとつ。両方とも、自信の体験を思い返している本で、日記のようなものだ。そこに経験から学んだ私見が見られる。

ストロースのブリコラージュは「近代社会のデザイナーやエンジニアは、物を作るときに概念から作ると。まずどのような物を作るかをイメージして図面やスケッチを書き、それからどういうものが必要だと、材料を書きだすわけです。設計図という概念に合わせて物を作っていくということが、近代社会の物の作り方です。ところが未開社会の人たちは、とりあえず身の回りの素材を寄せ集めて物を作ってしまうわけですね。」(スペクテイターvol.29より)といっていて、で、その実践編が猪谷六合雄の本といったところか。

で、猪谷さんの過ごしていた戦後あたりは、なにもなかったりで、新しいものを自分の手で、そこにあるものでこさえていく。

いまはというと、だいたいのものがある。で、自分で一から作るより、そのもの単体は安い。だから、求められるのは、既存のものを組み合わせて、新しいものを作り出す能力。新しいブリコラージュ。

いまをいきるひとには、一から新しいものを作り出す力が失われていっているような気がしてて、だから、家の建てかたも、職人が作るようなそれではなくなってきているのではないのか。あるものの価値がなくなったからではなく、ひとの能力に変化が生まれたからなのではないのか。

一から新しいものを作る力の代わりに、いまあるもの組み合わせる力増しているようにおもう。たとえば、Jpopは別として、いまの音楽の先端は、4つ打ちと、民族音楽との組合せだったりする。4つ打ちは現代的音楽だし、民族音楽は脈々と受け継がれているものだ。これは既存のもの組み合わせでできた新しいもの。

そうかんがえると、いろいろ合点がいくことがあったり、これから先のことを考えると、わくわくする。いま必要なのは、編集能力とセンスなのかもしれない。