5月9日

訪れは、「おとずれ」ではなく、「おとづれ」で、音連れとなる。「ず」と「づ」のこの違いを感じ取れる感覚を忘れちゃいけない。だから、訪れると書いたときには、音も一緒に連れてくることになる。そう感じ取るにはやはり、「づ」でなければいけない。この違いは日本人じゃないとわからない。なぜなら仮名というのは日本人が考え抜いた言葉だから。僕がいま学びたいのはこういうこと。二夜続けて、松岡正剛さんに唸った。

 

山本七平が日本人が忘れちゃいけないことがふたつあって、ひとつは、不定時法、もうひとつは、仮名だと。最近はそのふたつに興味があって、どの本を選ぶか考えている。(ほぼもう決まったけど)というのも、春の曙や、夏の夜がなぜだかわからないけど、いいなとおもえるのは、元を辿っていけば、このふたつが大事だからなのだろう。ぼくが晴らしたいうやむやの謎はここにあるとおもふ。

 

 もはやグローバル日本は「日本のない日本」でいいんだという混乱なのだ。先だってシャネルのリシャール・コラスさんがこんなことを資生堂に向けて語っていた。「日本の企業がグローバルになりたいなら、“郷に入っては郷に従え”には、しないことです。日本は世界のどこでも日本を主張するべきです」。  その通り。日本はナショナルな「国」よりも、パトリオットな「郷」をもって世界に向かうべきなのだ。企業だけではない。政治もサッカーも歌舞伎も、そのほうがいいに決まっている。それなのに経産省はクールジャパン予算で400億円をありきたりなシナリオでばらまこうとしているし、家庭雑誌たちは今年もまた「おせち」の特集で正月をごまかそうとするだろう。  こんなことばかり続いているのは、いけません。そろそろ足腰を鍛え、“Jかさね”の方法日本を方法日本用語で解読できるようにするべきである。今夜の千夜千冊がその一助となれば、有難い。(松岡正剛 千夜千冊1526夜「かさねの作法」より)