5月7日

北風が吹いて、少し肌寒い長期休暇明け。

 

昨日、山下達郎のラジオを聴いて、気になったことが、今日ずっと頭にあった。あるリスナーからのリクエストのメッセージで、ベタってドウイウ意味ですか?という質問のこと。

 

言論の自由は、なにを言ってもいいということだけではない。ある言葉や文脈の解釈を、どうとらえてもよいというのが大事だとおもう。ある言葉の意味が一対一ですべて対応していなければいけない制約があると、正直しんどい。シャレやメタファーのない会話に、自遊はない。この言葉はこういう意味でしかありえないと思うことって、巡り巡って、他人にもそれを強要していることにほかならない。

 

同じ言葉でもひとによって捉え方は違うのだし、同じ言葉でも背景が代わると意味が変わってくる。言葉はいつだって動き回っている。「わしが言葉を使うときは、言葉はわしが意味させようとしたものを意味するーそれ以上でもそれ以下でもない」と『鏡の国のアリス』のハンプティダンプティ

 

五月ってどんな感じと聞かれれば、寺山修二の歌であり、夜の雨の匂いであり、竹の青臭さであり、田んぼに張った水で鳴くカエルであって、たくさんの5月なのだから。