2月17日

8時30分に目が覚めた。いつもの日曜日のように、野菜の直売所へ向かう。棚には、根のものがへり、葉物が増えてきた。春の葉っぱの苦味はいい。冬の眠りから目覚めさせようとしているのだろうか。

 

帰宅して昼ご飯を作りながら、今日は通っていた学校の最終日だから、感傷のしみじみがじわっと湧いてくる。この4ヶ月を振り返る。寝ても醒めても頭に思い浮かぶのは、稽古のこと。月に数冊しか本は読めなかった。これまでインプットがほとんどだったのに、頭の中のことをたくさん吐き出した。吐き出してトコロテンのように型にはめていった。そうしたらいままでになかったいろんな種類のトコロテンが見えるようになった。方法に入るとは、ひとつはソンタグ『反解釈』のようなもので、自己を消してなお自己が染み出てくるもことなのだろうと体感する。まだ身についていない。これはまだ序章に過ぎず、未知の道がつづく。

 

夜、最後の解を提出する。3週間後には東京にてクラスメートと師範代と師範とヨーダーと顔をあわせる。この学校に入ったのはヨーダーと異国も早く合わなければいけないとおもったからだ。このひととは顔を合わせておかなくてはいけない直感が働いた。それにしえも苦しくて楽しかった。これからの半年はまた多読に戻り、それからネクストレベルの門を叩くつもりでいる。こんなブレイクスルーな体験、そうない。教えられるのでなく、気づかされる。そこにはあるのに見えなかったものを見えるようになった。師範代が南を指すから南へ行くのだ。

 

芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることである。「目に見えるもの」と「目に見えるようにする」とのあいだに行きなさい。

 パウル・クレー